義田 貴伺 Takashi Yoshida パーソナルトレーナー・柔道整復師

パーソナルトレーナー義田貴伺

経歴

  • 大阪府立城東工業高校(現 城東工科高等学校) 卒業
  • 島谷学園東北柔道専門学校 柔道整復科 卒業

国家資格

  • 柔道整復師免許

民間資格

  • 公益財団法人健康・体力づくり事業財団 健康運動指導士、健康運動実践指導者
  • NESTA(全米エクササイズ&スポーツトレーナー協会) 認定PFT(パーソナルフィットネストレーナー)
  • PHIピラティス MAT Ⅰ&Ⅱ
  • PHIピラティス バレル
  • PHIピラティス チェアーインストラクター
  • 日本SAQ協会認定 SAQレベル1インストラクター
  • TRX サスペンショントレーニングコース(STC)認定トレーナー
  • TRXRip トレーナートレーニングコース(RTC)認定トレーナー

特技

  • 柔道五段
  • ボディビル

柔道戦績

  • 大阪市長杯四段の部2連覇

ボディビル戦績

  • 1998年 大阪選手権75kg超級6位 新人賞
  • 2001年 大阪選手権無差別級2位
  • 2001年 関西選手権無差別級5位
  • 2004年 大阪選手権無差別級2位
  • 2004年 関西選手権無差別級2位

ボディビルダー現役時代

ボディビルをしていた頃の写真です。体重83kg/体脂肪率4%(2004年撮影)

現役時代1
現役時代2
現役時代3

近影

近影
こちらの赤のバックの写真は2017年9月24日撮影のものです(減量してません)。
45歳。現役時代と同じようにトレーニングしているわけではありませんが、今なおトレーニングを実践&継続しております。

指導歴

  • 少年サッカー(全国レベル、現ジュニアユース選手)
  • ベストボディジャパン選手
  • ボディビルダー
  • 県警柔道部特練チーム(一部優勝)
  • 俳優
  • ダンサー
  • スタントマン等エンターティナー

自身も、その肉体からは想像のつかないキャラクター、存在感、パフォーマンスでエンターテイナーとしても活躍中。

My History

コテコテの大阪人、かつ典型的な末っ子

肥満体だった幼少期

大阪でも特にコテコテな河内と言われる(河内のオッサンの唄を検索していただくとコテコテな単語が乱発されています 笑)、東大阪市で5人兄姉の末っ子として生まれました。
兄姉全員がいろんな意味でキャラが濃かったため常にいろんな意味で上と比較され、当時肥満児だった私はすでに体型コンプレックスを持っていました。

そして中学に入学すると、太っていると言うだけの理由で柔道を始めました。格闘技はそれほど好きではありませんでしたが、なんとか初段を取りました。

身体を動かす楽しさを覚えた高校時代

当時、私の親が工場を経営をしていたので、最寄りの工業高校へ進学。柔道はせず、部活も模型部にでも入るつもりだったので、体育の柔道の授業でも黒帯は締めずに白帯で未経験者のフリをしていたのですが、同じ中学の柔道部だった友人の付き添いで見学に行ったのが運の尽き(?)、そのまま柔道部に入ることになりました。このあたりの流れはほとんど、柔道経験者のバイブル「柔道部物語」に近い感じでした(笑)。

高校時代

また、公立高校の中ではそれなりに強い学校だったので、高校2年の時には団体で大阪ベスト8、個人でベスト32に入り、単なる肥満児だった自分も、二次成長期でそれなりのがっちりした体型になりました。逆上がりができるようになったのもこの頃です。逆上がりができたときの感動は今も覚えています(苦笑)。

また、日体大系列の学校で行う大会の個人戦で優勝したときに「痩せたら女の子にもモテるかも」などと甘いことを考えた私は(私の通っていた工業高校は科目的に女性がほとんどおらず、女性っ気の全く無い学生生活だったのです(苦笑))、次の大会では減量し階級を落として出場する事にしたのですが、当時流行っていた「単品の食品だけを食べて、摂取カロリーを落とすだけ」というほとんど科学的根拠の無い減量方法だったため、体脂肪よりむしろ筋肉が落ちただけの減量で、とにかく大失敗でした。

ただ、減量時に始めた自転車で身体を動かす楽しさを覚え、毎週京都までサイクリングしたり、自転車で日帰りで福井県の海で泳いできたり、柔道部引退後には自転車で日本縦断(大阪〜北海道)したりと、柔道とは違う、球技以外のスポーツ全般が好きになりました。球技以外は…(笑)

自転車で日本縦断

整骨院という職業との出会い

高校生の時に進路について考える際、当時柔道部の先輩方はほとんど一部上場企業に就職されていたのですが、柔道部の顧問の先生から「整骨院で働きたい奴いるか?」と声をかけられ、当時から「大企業で働くより手に職を持つ方が自分の性に合ってる」と思っていた私は、顧問の先生に相談し、すぐに面接を受けて整骨院に弟子入りすることになりました。

高校3年の春、学校の遠足で当時鶴見緑地で行われていた花博に行き、解散後すぐその足で面接に行きました。遠足ではみんな私服なのに、私だけ面接のために学生服。もう完全に問題児が先生に目をつけられて学生服を着させられて、遠足に来てるような感じでした。

整骨院に就職を決めた、とはいうものの、実はそれまで整骨院に通ったことが全く無かった私は、そもそも整骨院って何をするところかすら知りませんでした。

そのような中、初任給3万円、それでも先輩達よりはかなり優遇されていたようですが、いわゆる丁稚奉公をしていました。当時は専門学校自体が全国で十数校しかったため専門学校に入るのが難しく、結局、柔道で仙台の専門学校に引っ張っていただくことで、1年後に専門学校に入学することができました。

人生で初めて大阪を離れて過ごした3年間は、現在ではSNSが普及したこともあり卒業後20年以上経っても繋がっている、「人生の仲間」とつながれた、とても良い3年間だったと思います。

まっすぐが良いのか?急がば回れ?迷走した20〜30代

柔道整復師の国家試験も無事合格し、大阪の修業先の整骨院に戻るという時、整骨院という仕事を知らずに就職し、また、整骨院以外の世界を知らずにそのままその世界に戻る事に「迷い」を感じた私は、結局、元いた整骨院には戻らずフリーターになりました。

当時、「○○0をしたい!」という確固とした目的はなかったものの、太りやすい体質であること、何をするにも体力は大事だと思っていたこと、またトレーニングも継続したいと言う気持ちから、通っていたスポーツクラブに「バイトで雇って欲しい」と自分から申し込みました。

募集していないところに自分から売り込んだと言うのもあり、バイトの時給は当時の最低賃金ぐらいでした。さらに、勤務時間と同じぐらい職場でトレーニングをして、支配人に怒られることもあり、とにかく元気だけは有り余ってました(苦笑)。

また、この当時、ふとしたきっかけで演劇のサークルに入ったりもしました。まさに「どこに向かってんねん!」って感じですが、向き不向きはともかく、「自分はアスリートよりもパフォーマーが好きだなぁ」と自覚した部分でもあります。

しかし、さすがに時給750円では何もできないと気づき(笑)、週に3日はジムで、残りの4日は現場作業員(大企業の下請け作業員)として働き始めました。今考えたら、ココは整骨院とはまた別の意味でコンプライアンスのかけらもないところで、夏場の作業では暑いし日焼けもできるからと、上半身裸でヘルメットも被らず大ハンマーや電動ドリルを使ってました(笑)。さらにそのままスーパーで買い物をするという、完全にならず者状態でした(苦笑)。

このとき、バイトがどんどん入っては辞めていく光景を見て、「お金って、身体が頑丈か、頭が良いか、悪いことしないと稼げないんだなぁ」と、なんとなく資本主義のバランスを感じました…

アメリカでボディビルダーを目指す

家族でハワイとロサンゼルスに旅行に行ったときに、「旅行ではなく住んでみたい」と思うようになり、当時、同じマンションに住んでいた、三洋電機でサンディエゴに住まれてた方に紹介して頂き、サンディエゴで半年だけ生活しました。と言っても、就労ビザはなかったので語学学校に通ったり、ひたすら近所のゴールドジムでトレーニングしたり、湖でインラインスケートでスケーティングしたり、映画を観に行ったりしたくらいですが…ただ、その生活で「ボディビルの大会に出たい」と思うようになりました。

初のボディビル大会

帰国後、ボディビルの大会出場を目指しトレーニング&減量をすることに。93kgから78kg程まで落とし、ライトヘビー級(75kg超級)で6位入賞、その年初出場の人間の中から選ばれる新人賞を頂きました。が、筋肉の大きさはそれ程ではなく、まだまだだなぁと痛感したのです。

食べるのを恐れて大阪2位 & 脱腸になりながら関西準優勝

トレーニングにどっぷりハマって、ついに大阪選手権でも表彰台に乗りました。ボディビルの身体づくりでは「カーボアップ」という過程があるのですが、これは筋肉にグリコーゲンを貯める作業のことで、これがあるとないとでは身体の張りが別人のようになります。

実は、この表彰台に乗った大阪選手権当日、「身体がむくんだらどうしよう…」と食べることが怖くなってしまい、カーボアップが足りず、途中で別人のようになってしまいました。

ただ、関西選手権は次の週にあったので「今度はちゃんと食べたら大丈夫だな」と思ったのもつかの間、なんと、大阪選手権で脱腸(鼠径ヘルニア)になってしまい、医師にも「力みすぎて何かあったら緊急手術しないと大変なことになる」と脅されて、トレーニングもままならないまま試合に出場。こんな状態ではありましたが、とりあえず準優勝できました。

整骨院業界に戻るも…

ボディビルの選手だった当時、整骨院やリラクゼーション業界で働きながらボディビルの試合に出場していましたが、選手としてはやりきったと思うようになったころ、整骨業界にしっかり腰を据えようと2011年9月に大阪市港区で開業しました。

しかし、時代は規制緩和の流れで、全国に十数校しかなかった専門学校が乱立し、柔道整復師の数(= 整骨院の数)が爆発的に増え、大阪の整骨業界は、すでにに医療と言うよりはサービス業に近い状態になっていました。もちろん技術レベルが最重要なはずなのに、いかに長時間マッサージするか?顧客満足度を高めるか?といった、まるで技術的な部分以外が本質かのような扱いの業種になっていました。

現在でも、有名な整骨院のグループではハロウィーンパーティーやクリスマスパーティー等、もう医療とはかけ離れたサービスも行っているようです。こういった流れや地域性もあり、患者さんも「ここは何分揉んでくれるの?あそこはこれだけしてくれるのに…」と、“○分○円”なんて書いてもいないのに、平気で聞いてくる方が多くなりました。

また、そう言う意識の方がほとんどの中、保険請求の場合、数百円の自己負担と保険請求の請求金額も制限がかかっていき、むしろ、健康保険を使うことによって、患者さんを治療だけではなく、動作や生活態度等の教育をする時間を確保することも出来ず、患者さんも、こちらも不幸な状態な事に気づきました。

誰かが言っていたのですが、治療家は保険治療に守られているのではなくて、保険治療に縛られていると言うことを今は痛感します。

「エクササイズ イズ メデイシン = 運動は、薬」

縁あって2014年の6月に、大阪市港区から大阪市西区へ店舗を移転することになり、整骨院メインから運動指導メインの店舗へシフトすることができました。クライアント様1人1人の目的や目標に合わせて、ゆとりを持ってトレーニングやエクササイズの選択、説明、指導、修正をさせていただいております。

クライアント様はもっぱら見た目の部分を気にされて当施設に来られる方がほとんどですが、それと同時に体調に不安な部分をお持ちの方も多々おられます。それらは、カウンセリング時に優先順位を確認したうえでセッションを進行していくのですが、見た目の部分と体調の部分が同時に良好になっていく場合がほとんどです。

また、自分で動くことによって見た目や体調が良くなることにより、「自分で自分を変えていく自信 = 自己肯定感」や行動力が付いていき、生活全体の幸福感が高まるのも「正しいエクササイズ」の素晴らしいところでもあります。

失敗の多い人間だからこそ

2019年現在は東京オリンピック間近で、いろんなカテゴリーの筋肉系コンテストが開催されていることもあり、いわゆる筋トレがブームになっておりますが、ほとんどの指導者が現役、もしくは非常に若い世代が多いと思います。私のように50代目前のいわゆる「アラフィフ」で、引退してから現場に入って経営しているパーソナル専門ジムは、意外と少ないのではないでしょうか。

また、正しいエクササイズは薬になりますが、ブーム故に特にエクササイズ動画、女性を対象にした情報など、誤った情報もかなり多くあふれかえっております。私も、学生時代、現役時代と間違った情報とたくさん出会ってきました。実際に無駄な時間を過ごした部分もあります。

しかし、失敗を多くしたからこそ、セミナー等では得られない経験も積んだと思います。

試行錯誤を行うのは選手や現場の人間では当たり前ですが、一般の方がそれをするのはあまりにもエネルギーが必要ですし、そのために何かを犠牲にしてしまうのは本末転倒です。それらの時間、労力の無駄をなるべく省き、最短でお客様の求める結果を出すお手伝いをさせていただければと思います。

パーソナルトレーナー・柔道整復師 義田貴伺